ヒツジの目/星あかりが見えない豊かな世界の私たち
ヒツジの目
目を閉じると198〇年にいた目を閉じると私は小学校の5年生、図書館係をしていて毎日児童書や児童向けの雑誌を読んでいた。
子供のころから図書館や図書室が好きだった。静かで安心できる事、それと本の匂い、ちょっと古い紙の湿ったような匂いが好きだった。
お昼の休憩が終わり、午後の授業が始まる時間だった。午後の授業は視聴覚室でビデオを見る予定だった。
担任のK先生は明るい性格で、裏表なくとても面白い人だった。先生はステレオタイプとは正反対、かなり変わった授業が多かったけれど生徒からはとても人気があった。
怒ると怖いけれど、いつも真剣に私たちに向き合ってくれている先生だった。
この日先生は生徒の私たちに何か重要なことを伝えようとした。
「真珠の首飾り」と呼ばれた美しい島で
この日、視聴覚室で見たのはTVのドキュメント番組だった。白黒の映像だったけれど、何やら太平洋の島国が映し出されていた。
それはマーシャル諸島共和国に属するビキニ環礁の島だった。
マーシャル諸島は太平洋上に浮かぶ島国で「真珠の首飾り」と呼ばれていた。
美しいサンゴ礁に囲まれ、豊かな自然に恵まれた太平洋に浮かぶ平和で穏やかな島、質素だけれど自然と人々が共存して営まれる穏やかな暮らしが垣間見えた。
でも、そこへ星条旗の腕章をつけた背の高い軍人たちがたくさんやってきた。
何か実験をするらしい。
島の人たちは実験の間別の場所へ移動する。実験の結果を観察するために数種類の動物があえて島に残された。
島に残されたヒツジの目が私にはとても印象深かった。ヒツジはこれから起こることをすべて知っているかのように、不安で悲しい色の目をしていた。
翌日がその日だった。
それは1954年3月1日にアメリカ合衆国が行った水爆実験、キャッスル作戦(ブラボー実験)の映像が映し出されていく。
大きな水柱が上がったかと思うと、巨大なキノコ雲が浮き上がっていく。
自然豊かな珊瑚の海に、太平洋の潮風に猛毒が拡散される映像だった。この猛毒は半減期が長い。長期にわたり遺伝子や生態系を狂わせ、生命にあふれる豊かな海を沈黙の海へ変えていった。
何のために?
白黒映像のはずなのに、私には空も海も人もすべてが真っ赤な血の色に染まって見えた。
ビデオを見終えた後も、あのヒツジの悲しい目が私を見ている。
真っ赤に染まった目がこう話しかける
「あの日、とても大切なものが光とともに一瞬で消えた。本当に大変なのは真っ赤な毒に染まった地上に残されたあなた達のほうだよ」
赤い色が消えなくて数日間ずっと気持ちが悪かった。
「何のために?」こういうことは繰り返してはいけない、私たちはどれだけヒツジを犠牲にしていくのか、イエス・キリストが十字架に磔にされたゴルゴダから私たち何も変わっていない。
むしろ悪い方へ行っているかもしれない。
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星あかりが見えない豊かな世界の私たち
目を閉じると2011年の夏だった、私は里山にいた。
蝉の声がにぎやかだ、私は里山にある廃校の給食室でボランティアの仲間と一緒に大量のカレーを作っていた。
思い出した。
夏休みに福島の子供たちを招く「短期間のキャンプ疎開」のボランティアに参加していた。
数人の人たちと一緒に子供たちの食事の準備をする係になっていた。
食堂に子供たちのための椅子やテーブルを並べる、トレイに暖かい食事を載せて配膳をする。
お腹を空かせた子供達が食堂に集まってきた。みんな日焼けして健康的な肌の色になっている。
夏の里山キャンプ疎開
このボランティアグループは地元の市民が集まって自然にできたものだった。
3.11の後、放射能の影響や食品のこと、がれきのこと、子供たちの健康のことなどを話し合っていた。
仲間の一人から「福島の人たちに何かできることはないか?」という意見が出たのをきっかけに被災した子供達を招待して、夏休みを里山で過ごしてもらう計画が立案された。
こうして福島の子供達と一緒に過ごす「夏休みのキャンプ疎開」の企画が出来たのだった。
この年もとても暑い夏だった、でもキャンプ疎開の廃校は山奥なので街中と比べて風もあり比較的過ごしやすかった。
とはいえ、廃校にはエアコンがなく、みんな扇風機やうちわで暑さをしのいでいた。
福島から総勢30人近い子供達が遠く離れた山奥までやってきてくれた。小さい子は小学校の低学年くらい、大きい子は中学生くらいだった。
みんな良く笑い、よく遊んで夏の暑さに負けず元気に過ごしていた。
子供達のキャンプの話を聞きつけて、地元の農家さん達や家庭用の農作物などを作っている人たちが毎日新鮮なお野菜や卵などご馳走をたくさん届けてくれた。
「作りすぎちゃったから、良かったら子供たちに食べさせてあげて」廃校の調理室は毎日届く新鮮な差し入れが届くいた。
まるで市場のように新鮮な食材が所狭しと並んでいた。
どの野菜も果物も作ってくれた人の思いを表しているようだった。丁寧に育てられたし農作物は優しい香りを放っている。
野菜や果物一つ一つ色やつやがあざやかで味も優しい。
大地の恵みと作った人の真心がそのまま実を結んで、美しい形を作っている。
子供達のために、木工教室が開かれたり、川遊びやハイキング、スイカ割り、花火大会など、地元の人たちやほかのボランティアグループと連携した催しがたくさん計画されていた。
子供たちの楽しそうな声を聞くと、とても嬉しかった。
おいしそうにご飯を食べる子、好き嫌いを言いながら食べる子、ちょっとホームシックになっている子、いろいろな子供たちの素直な表情が見られた。
夏の太陽の光に負けないくらい、どの子ものびのび過ごしている様子、表情がキラキラまぶしく輝いていた。
ずっと子供たちの姿を見ていたかったけれど、時間が限られていた。
夕食のかたずけが終わったので、一旦家に帰ることにした。あたりはもう真っ暗だった。
星が見えなくなった豊かな世界
里山は街路灯が少なく暗いから星が明るく輝いて見える、月の明かりも普段より一層明るく見える。
駐車場まで小道を歩いていると、ゆらゆらと光を放ちながら、ほたるが飛んでいくのも見える。
車を運転していると、先ほどまで子供達と過ごした自然豊かな里山の廃校から、不自然なくらい明るい市街地へと景色が移り変わっていく。
夜なのに昼のように明るくて不気味だ。
街路灯はまだいいとして、夜なのにスーパーやコンビニなど商業施設や大きな工場などさまざまな明かりが煌々としている。
市街地はいたるところに電灯などによって明るく照らされている、反面、空の星が見えにくくなっている。
光害という言葉はこのことを言うのか、さっきまであんなに明るく輝いていた星も月も弱々しい。
手に負えないものを扱うことで生まれる犠牲
夜の街を明るく照らし出すために電力がどれだけ必要なんだろう。
夜間電力は割安なのかもしれないけれど、夜に工場や商業施設をお休みにしたら、そうとう節電になるし環境にもいいと思うのだけど・・・。
私たちは何のために昼も夜もなくロボットみたいに働いている、こんなことをしているから体内時計がくるって本当にロボットになってしまう。
そして、思考や、感情、感覚や体そのものがおかしくなってしまうのでは?
そんな疑問が生まれてくる。
地球の肺といわれるアマゾンの熱帯雨林を焼き払い、海の水をろ過してくれる腎臓のようなサンゴ礁を痛めつけ、私たちは一体何を生み出しているんだろう?
世界は豊かになっているはずなのに、何のために働き続けるのか。
核だけでなく私たちは利便性や豊かさを求めリスクの高いものを扱っている。
不確かなテクノロジーを万能だと思いこんで過信いるのかもしれない。
危ないものを安全だと思いこむように自分たちにバイアスをかけている、そうしないと正気が保てないのだと思う。
私たちは自分たちの手に負えないもの、未来への負の遺産になるものを、犠牲を払ってまで利用し続ける。どうしてなのかよくわからない。