CATNAP~夢を使った次元旅行~

愛知県でQHHTというヒプノセラピーを行っています😺どうぞよろしくお願いいたします🐾

「夜と霧」ヴィクトール・フランクル

「夜と霧」ヴィクトール・ランクル
私は中学生最後の夏休みに初めて「アンネの日記」を読みました。
あの頃、夏休みは読書感想文が宿題に出されて、課題図書とか推薦図書とか、いろいろな本が進められていました。


書店へ行くと”夏の100冊”とかいうキャッチコピーでたくさんの本が並んでいました。

当時はもっと本屋さんが多かったので、いろいろな書店を回って、どんな本が置いてあるのかチェックするのが好きでした。



 

「アンネの記」

夏休みになると、毎年先生たちの推薦読書みたいなものに「アンネの日記」があげられていました。


私はそれがあまり好きではなかったので、中学校の最後の年まで本を読もうとしませんでした。だって、バッドエンドの重たい内容だという事は大体わかっているから、あと、戦争と平和というテーマが重たすぎていまいち読む気になれませんでした。

学校や先生の推しが強いので本だけは購入し、数年の間”積ん読”になっていました。

しかし、中学3年生の夏休みは別でした。受験勉強をする気がまったく起きなかったので、「本でも読もうかな」みたいなノリで「アンネの日記」を読みました。

読んでみると、私が最初に思っていたイメージと違って、読みやすいものでした。10代の女の子が書いた日記でしたから、目線が近いからでしょうか?

難しい内容や言葉がなくて読みやすかったのです。


著者に何か共感する部分が多く、本を読んでいくうちに彼女が友達のように思えてきました。

でも、共感するからこそ、彼女を取り巻く環境や、彼女のたどった運命が自分のもののように身につまされ、苦しい展開になっていきました。

 

何とか最後まで読みましたが、読み終わった後は数日無気力になっていました。
”どうしてこんなひどいことができるのだろう?”

”生きるってこういう事なの?”
と考え続け、社会や世の中が、人間のことがよくわからなくなっていました。


夏休み中で学校も部活もありませんでしたから、誰かと話をするわけでなく、一人で数日間無気力で落ち込んでいました。


連日暑い日が続くので、考えるのも嫌になっていきました。そんな時「アンネの日記」と一緒に購入していた「夜と霧」が目に留まりました。

この本も「内容が重たそうだから」という理由で数年間”積ん読”していたものです。でも、この時は「重たい本1冊読んだし、もう1冊読んでも一緒かな」と思って、これまで避けてきた「夜と霧」を読み始めました。




ランクルと霧」

「夜と霧」はアンネの日記よりも内容や単語が難しかった印象があります。おまけに内容も展開も重たいので、当時の私はかなり読み飛ばしていました。

前半は収容所の様子や悲惨な事実が次々と語られていて、読むのが苦痛なくらいでした。

それでも、何とか読み続けているうちに、過酷な運命や環境の中にありながら、ささやかなことに喜びや、幸せを見出す人。
ちょっとした楽しみを大切にする人たちが現れてきます。

明日はどうなるかわからない死への不安や恐怖と隣り合わせの日々、悲惨な環境の中、絶望の中でも積極的に喜びや幸福を見つけ出そうとしている人たちの姿や生き方に目を奪われるようになりました。

私なら収容所でこんな風に前向きには考えられないし、自分の不幸に絶望し嘆いたりして前向きに生きられないと思いました。
こんな環境の中で、一瞬一瞬を大切に丁寧に生きている人たちの前向きな姿に、人間の持つ力強さを感じるようになりました。ものすごい精神力だと思いました。

 

本を読んで思ったのは、平和な社会はいつ崩れ去ってもおかしくないな。ということです。

平和で豊かな社会や穏やかな生活は微妙なバランスの上に成り立つもので、いつ、その社会の秩序の均衡が、モラルの均衡が崩れるかわからない。とも思いました。

スタンフォード監獄実験やミルグラム実験にもあるように、普通の平凡な市民でも、一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことは証明されています。


戦争だけでなく、自然災害や疫病の流行、人口や食料の問題、さまざまな問題と隣り合わせの世界です。ちょっとしたことがきっかけになって、
今の日常が消えてしまってもおかしくはないのだと思います。


「蟻の一穴天下の破れ」という言葉がありますが、大事は、ほんのささいなことから起こるし、それは、ちょっとしたことが原因で、全体に波及して収拾がつかなくなってしまうのですよね。


不安やパニック、ヒステリックなエネルギーは周囲に不協和音をふりまいて伝染すると思います。個人の意識が集団意識に飛び火する時が一番危ない状態になるのでしょう。

ちょっとしたきっかけで、私たちの集団意識のバランスが崩れると、同時に社会のバランスが崩れます。

善悪の判断がうやむやになって、不安や恐怖心から暴力が横行する世の中になってしまう。

そうならないように、私たち一人一人が冷静に考えて行動しなくてはならないのだと思います。


いろいろ便利で快適な生活にすっかり慣れてしまっていますが、これから先はどうなるのかわかりません。
食料やエネルギーの問題は顕著なので、不便なことや理不尽なことが増えてくると思います。豊かな時代から質素な時代に戻っていくのかもしれませんが、経済が悪化すると治安が悪くなる可能性があるので危険な出来事も増えるかもしれません。

ウクライナチベットウイグルで起きていることは他人事ではないと覚悟しておいた方が賢明だと思います。もちろんそうならないことが理想ですが。


出来るだけみんなで仲良く平和な社会を保てるように、欲張らないように気を付けながら、不足や不便と仲良くしていきたいですね。
個人のことも大切ですが、全体のことを考えながら丁寧に、日々与えらえている資源や環境、自由に感謝しながら過ごしていけたらいいな。と思います。

 

 

「おおきな木」ものがたりの世界

「おおきなのがたりの世界

私は子供のころから物語が好きでした。思い出すと、小学校のころ図書室が好きで、毎回図書係をしていました。
図書係をしながら、絵本を読んだり”小学〇年生”という雑誌を読んだり、本が友達みたいな感じでした。

大人になった今でも好きな絵本や童話がいくつかあって、その一つがシェル・シルヴァスタインさんの書かれた「おおきな木」です。

この本を初めて読んだのは、中学校の時でした。英語の教科書に載っていた原文を読みました。
絵本の凄いところは、英文の単語とか文法が分からなくても、挿絵でストーリーが分かるところです。
「おおきな木」の挿絵は表現力が豊かで訴えるものがあります。
シンプルな白黒のイラストからは言葉以上につたわるものがあります。
少年と木の関係や、木の優しい愛情、木のさみしさなどがつたわってくるのです。一本一本の柔らかな枝の曲線に、一枚一枚の木の葉に言葉以上の思いが現れていると思います。
シンプルな絵の表現力の持つ凄さを感じる絵本です。
挿絵を見ているだけで、お話の世界に引き込まれ、気が付くと英文を一気に読んでいました。
短いストーリーだったし、難しい単語や文法はなかったので、自分で一通り翻訳した後、図書室へ行って本田錦一郎さんが翻訳された「おおきな木」を読みました。

 

おおきな木 単行本 – 1976/1/1 シェル・シルヴァスタイン (著), Shel Silverstein (原著), ほんだ きんいちろう (翻訳)

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%AA%E6%9C%A8-%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4784101489

 


「おおきな」をんで・・
はじめて「おおきな木」を読んだとき、木が少年に注ぎ続けるあたたかな愛情に胸が痛くなりました。
時が流れても木はずっと変わらずに、少年に愛情を注いでいくのですが、少年の方は成長と共に木と向き合う時間が減り、さらには自分が欲しいものを得るために、木から果実や枝、いろいろなものをもらっていきます。
少年は欲しいものをもらった後、木のそばから去っていきます。
木は少年を喜ばせたくて、少年の望みを叶えたくて持っているものをすべて与えていきます。
このストーリーは挿絵を見ながら読んでいると、とても切なくなります。
少年が成長と共に本当にたいせつな物を見落としていることが、とても悲しくなってくるのです。

 

同時に私自身も”大事なもの”を見落としていないかな?って自分に問いかけたくなります。

 

www.dekunobou.com

『おおきな木』シェル・シルヴァスタイン 作/ほんだきんいちろう(本田錦一郎)訳
(篠崎書林)

 

 


から受け取ったもの
私はこの絵本を読むと母や父のこと、祖父母のことを思い浮かべます。
私の実家はお世辞にも裕福ではありませんでした。それでも、母は精一杯に私や妹の望みを叶えようとしてくれました。
「無理な時は無理」といわれましたが、そうとうわがままを聞いてくれたと思います。


父は不器用な人だったけれど、不器用なりにいろいろと私たちのために配慮してくれていたと思います。
祖父や祖母も、それぞれが複雑な関係でしたが、出来る限りの事をしてくれたと思っています。

家族の中でも特に母親は見返りを求めず愛情を注いでくれた大切な人だと思います。
私は神経質な子供だったので育てにくかったのでは?と思います。
幼少期は学校などで問題を起こすこともありましたし、それでも根気よく見守ってくれて本当に感謝しています。


子供のころは一緒に遊んでくれて、大きくなると人間関係や仕事のことで話を聞いてくれた穏やかな人でした。じっと話を聞いて寄り添ってくれる母、私はそれが一番うれしかったです。
お説教とかするタイプではなくて、ただ話を聞いてくれて一緒に寄り添ってくれた母は私にとって「おおきな木」のイメージにぴったり当てはまります。


母にはいつも与えてもらってばかりで、私は何か返すことができたかな?
今でも心配ばかりかけてしまって、申し訳ないと思ったりします(;^_^A
母だけでなく友達や大事な人たちには、ちゃんとお礼を伝えておきたいです。
そう思っているのに、大切な人に次から次へと心配ばかりかけてしまう日々なので、本当に申しわけないです。

 

 

ーリッロムの
翻訳をされた本田錦一郎さんはあとがきの中で、エーリヒ・フロムの著書『愛するということ』から「愛とは第一に与えることであって、受けとることではない」という一文を引用されています。

これはシェル・シルヴァスタインさんが絵本を通して本当に伝えたいテーマを上手に拾い上げてみえると思いますし、こういうところが本田さんの素敵なところだと思います。


個人的にエーリヒ・フロムの思想が好きなので、本田さんが引用された言葉が胸に響きます。

フロムは愛のために自分を犠牲にすることは進めていません。

私もフロムと同じ意見です、無理して自己犠牲的に愛情を与える必要はないと思います。
自分ができる範囲で、与えることが嬉しいとか、楽しいとか、そう思える範囲で愛情とか思いやりをシェアできたら良いよね。って思います。
押し付けるのはちょっと違うから、受け取ってもらえたらいいな~くらいのチカラ加減でしょうか?

だって、シェアして受け取ってもらえると本当にうれしいですからね(*^-^*)
シェアした相手に喜んでもらえたりしたら、本当に幸せなことだと思います☆

私は日ごろ素敵な贈り物をたくさんもらってばかり、とても嬉しいことです。

嬉しいからこそ、与えてくれた相手が同じように、嬉しくなってくれる何かお返しをしたいと思っています。
あげられるものは何もないけれど、感謝の気持ちが伝わるといいな。




自然から地から与えてもらっている
「おおきな木」は木と少年の物語ですが、見方を変えると自然と私たち。地球と私たち。みたいな見方もできると思います。
森や海、川や山、木々や草花、果実や動物たち、昆虫たち、地上に住んでいるあらゆる命からの恵みを私たちは無償で享受していると思います。


こういう豊かな恵みは自然からの、地球からの無償の愛情なのだと思います。
自然や地球、宇宙の恩寵を日々受け取りながら、何か返すことができているのかな?
人にも動物や虫たちにも自然にも、太陽や星、宇宙にも感謝ですね
いつもありがとうございます☆



星読み会マイナーアスペクトの振り返り

マイナーアスペクトについてり返り

今日は星読みの勉強会だったので、復習を兼ねてマイナーアスペクトについて少しまとめておきたいと思います。


マイナーアスペクトって何?
占星術で一般的に使用されるメジャーアスペクトに対して、あまり使われないけれど、重要な意味を持っているマイナーアスペクト

セミセクスタイル(30度)
デシル(36度)
ノヴァイル=ノナゴン(40度)
セミスクエア(45度)
セプタイル(51.26度)
※セプタイル系列には分離角約103度のバイセプタイルと約154度のトライセプタイルがあります。
クインタイル(72度)
セスキコードレイト(135度)
バイクインタイル(144度)
クインカンクス=インコンジャンクト(150度)

あたりをチェックしていくといいと思います。オーブは1度〜2度くらいタイトに見ていきます。

 

 


6月はアスペクトと幾何学図形の講座でした
6月の松村先生の講座でもマイナーアスペクト幾何学図形についてお話がありました。
アスペクトは度数を重視しがちですが、松村先生はアスペクトのことを天体同士が作り出す幾何学図形だとお話されています。

この幾何学図形はそれぞれが固有の性質を持っているので、メジャーでもマイナーでもたくさんの幾何学図形を取り上げていくと、それだけ意識のポイントが増えます。
アスペクトの図形が作り出す性質を上手に生かしていくことで、私たちの持っている可能性がこれまでよりも広がっていきます。
とくにマイナーアスペクトは取り上げられることが少ないかもしれませんが、とても重要な意味を持っています。

ちょっと計算が大変だったりするのですが(-_-;)
マイナーアスペクトをチェックして、その数字や幾何学図形の意味を知ることで、「こういう特徴もあったんだ!」と新しい発見があります。

 


マイナーアスペクトについてメモ書き

マイナーアスペクトについて、アスペクトを作る天体の組み合わせによって影響は全く異なってきます。そのため、メモ書き程度にアスペクトの傾向をまとめておきます。

 

セミセクスタイル(30度)…円の12分割
内面の力

・デシル(36度)…円の10分割
物事の具体化現実化
※デシルの2倍はクインタイルを参照してください。
三倍のトライデシル108度はデシルの特徴に「3」の意味をプラス


・ノヴァイル=ノナゴン(40度)…円の9分割
精神的な成長、探求

セミスクエア(45度)…円の8分割
力をためる


・セプタイル(51.26度)…円の7分割
駆け抜ける、伝達する
※セプタイル系列には分離角約103度のバイセプタイルと約154度のトライセプタイルがあります。

・クインタイル(72度)…円の5分割
拡大と防衛

・セスキコードレイト(135度)
セミスクエア(45度)と同じく、力をためる傾向。
セミスクエアに「3」の性質をプラス

 

・バイクインタイル(144度)
クインタイル(72度)と同じく、拡大と防衛
クインタイルに「2」の性質をプラス


クインカンクス=インコンジャンクト(150度)
訓練や修行

 

マイナーアスペクトについてもっと詳しく知りたい方は
アスペクト解釈大事典」松村 潔  (著) がとても参考になります。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%88%E8%A7%A3%E9%87%88%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E6%9D%BE%E6%9D%91-%E6%BD%94/dp/4906828345

 

 


マイナーアスペクトの出し方
マイナーアスペクトについて、一般的なホロスコープソフトですべて計算するのは難しいようです。
36度のデシル、40度のノヴァイル=ノナゴン、セプタイル(51.26度)が表示されないケースが多いと思います。

特に離角約103度のバイセプタイルと約154度のトライセプタイルなど計算してくれるソフトあるのかな?
そのため、自分でひとつずつ計算するのが一番得策かな?と思います。

 

「さくっとホロスコープ作成 nut's wheel」というサイトはデシル、セプタイルなど多くの種類のマイナーアスペクトを表示してくれます。
計算を確認する際、参考になるかも?なのでマイナーアスペクトの出し方について少し説明します。

※ノヴァイル40度、トライデシル108度、バイセプタイル103度、トライセプタイル154度、バイクインタイル144度は表示されないので自分で計算してください。



nut.sakura.ne.jp

☝「さくっとホロスコープ作成  nut's wheel」のリンクを開きます。


1.ホロスコープの種類は「レポート」を選びます。
2.左側のアスペクトの項目を選択し「+マイナー」に設定します。
3.出生時間を入力、緯度経度も調整してください。
4.「作成」をクリック

マイナーアスペクトが表示されたホロスコープが表示されます。
円形のホロスコープの下にアスペクト表が表示されますから、それを見てアスペクトをひとつひとつ確認しましょう。


表の上にはアスペクトの度数が、下のカッコ内はオーブが記されています。
マイナーアスペクトの場合、オーブを2度以内でいいかな?と思います。
※「アスペクト解釈大事典」にはオーブ1度とありますね(^▽^;)

※ノヴァイル40度、トライデシル108度、バイセプタイル103度、トライセプタイル154度、バイクインタイル144度は表示されないので自分で計算してくださいね。

チベタン・マスティフと中島敦さんの「山月記」

「立方体を見る」の最初の

今日はスマヤさんの「立方体を見る会」の最初の日でした。

グループで変性意識を使って立方体の面それぞれの傾向や自分の様子を知って行きましょう!みたいな集まりでした。

参加された皆さんは変性意識に入るのがお上手で、こういった勉強をしている方ばかりでしたから、とても勉強になりました。

毎回思うのですが、やっぱり主催してくださる方が上手な方だと自然に良い雰囲気を作っていただけるので、とてもいい探索会になります。いつもさりげなく緊張を解きほぐし、和気あいあいとした空気に誘導してくださるので安心できます。

今回も主催のスマヤさんや参加された皆さんが素晴らしい方ばかりだったので、内容の充実した楽しい探索会になりました。

 

立方体の探索についてはこれまで何度か松村先生の著書なので話題に上がっていますから、
ユングの「6つのアーキタイプ」を用いて探索された方も多いと思います。

 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2040007による

 


今回は立方体の上と下の面を探索しました。
私は変性意識に入るときだいたいYoutubeのバイノーラルビートθ波音源を使います。
2つくらい気に入っている音源があるので、その日の気分で使っています。

www.youtube.com

www.youtube.com

 

 


θ波バイノーラルビートきながら
バイノーラルビートを聞きながら、頭の上から順番に力を抜いていき、全身の力を抜く~みたいなことをしています。
変性意識に入るときは、意識を保護する膜を作るイメージや、ガイドに助けてもらうアファメーションなども効果があると思います。


保護をして、ガイドへのアファメーションが済んだら、変性意識で知りたいこと「テーマ」について意図をしていきます。
意識を集中させるのが難しいので、余計なことを考えてしまいます。「意識がそれたな」って気が付いたら、「テーマ」を意図して意識を元に戻していきます。
そんなことをしていると、なんとな~くモヤモヤっとした、曖昧で輪郭のはっきりしないもの、雲をつかむようなものが見えてくる。そんな感じです。



 

意味からないのがっきりしていく
私の場合、最初はロールシャッハテストに出てくるようなインクのシミみたいなものや、光なんかを見たりすることが多いです。
それを呼び水にして、シミの形が変化していくのを眺めたり、光の色や形が変化していくのを眺めたりします。
眺めていると、だんだん意味あるものに見えてきて、なんとなくストーリーみたいなものが生まれてきます。

暗闇, ライト, ボケ, バックグラウンド, ポイント, フレア, 反射, レンズフレア, 白い, 輝きます

 


意識層と層の様子
この日は立方体の上の面と下の面を探索しました。
ユングアーキタイプでいうなら、上の面はオールドワイズマン、下の面はグレートマザーです。
上の面が上位意識の境界面だとすると、下の面は、下位意識である下意識との境界面と考えると面白いかも?です。
皆さん共通して、上の面オールドワイズマンを探索しているときに若干したの面グレートマザーの情報が入っていました。
上と下は向かい合わせなので、お互いに影響が反映されているのでしょうね。

 

 


意識下限ベタンスティフ
今回の探索会で面白かったのが、下の面グレートマザーの情報でした。
私が変成意識で見ていた下の面は薄暗いというか、暗闇につながる場所でした。ここは私の意識の足元、一番低い自我とか意識の下限を表しているのだと思います。
これ以上下に降りると、下意識に取り込まれて自分を見失う場所、結構危ないところだと思います。
暗闇の中、真っ黒なおおきな犬がいました。なんとなくこれが私の境域の守護者かな?と思いました。この犬は少し前に動画で見たチベタンマスティフに見えました。

 

 

マスティを表しているのか?
私にとって意識の下限を守護する存在がチベタン・マスティフなのです。
自分の意識を保つぎりぎりのラインの象徴なのでしょう。
このマスティフが意味しているものについて、変性意識の中で感じていたのは秩序に基づいた思いやりとか弱いものを保護する。そういう意識でした。
見た目真っ黒で怖い感じですが、マスティフは全身を大きく広げて私の足場になってくれていました。
下の面はマスティフの黒いふかふかした被毛が敷き詰められていました。
でも、毛皮の下は下意識の世界で無限に広がる暗闇があります。

無限の暗闇に呑み込まれると戻ってこれないんじゃないかな?と思いました。

 

 


「山月記」(下意識)に食われて人喰い虎になる
私は最近自分自身の下意識が凶暴性や強い排他性を持っていることを感じています。
意識がちゃんとあるときはまだいいのですが、思考や感情、身体の感覚に同一化して自分を見失う時が危険です。
自分を見失う時、下意識に広がる無限の暗闇から凶暴性や強い排他性が広がってきて私はこれに同一化します。
そして周りの人を傷つけてしまう、そのことを心配しています。

私が自分を見失う時、中島敦さんの短編小説「山月記」に登場する李徴のように人喰い虎なってしまうのでしょう。
山月記の李徴の場合は臆病な自尊心、尊大な羞恥心などが下意識に取り込まれるきっかけになっていたと思います。

私も李徴と同じ傾向を持っているので猛虎軍団です。
・・じゃなくて「人喰い虎予備軍」です(^▽^;)
やはり自分自身が何よりも一番恐ろしい。

と改めて思いました。2重3重に猫をかぶるというか・・。


マスティフに助けを借りながら、虎にならないように、トラネコ程度で過ごせるように気を付けたいと思います。

自分の下意識を増長させないように、虎の機嫌を取りながら、立方体を広げたり、立方体の外の世界を探検していきたいなぁ。と思いました。

 

 

ヒツジの目/星あかりが見えない豊かな世界の私たち

ヒツジの目
目を閉じると198〇年にいた目を閉じると私は小学校の5年生、図書館係をしていて毎日児童書や児童向けの雑誌を読んでいた。
子供のころから図書館や図書室が好きだった。静かで安心できる事、それと本の匂い、ちょっと古い紙の湿ったような匂いが好きだった。

お昼の休憩が終わり、午後の授業が始まる時間だった。午後の授業は視聴覚室でビデオを見る予定だった。
担任のK先生は明るい性格で、裏表なくとても面白い人だった。先生はステレオタイプとは正反対、かなり変わった授業が多かったけれど生徒からはとても人気があった。
怒ると怖いけれど、いつも真剣に私たちに向き合ってくれている先生だった。

この日先生は生徒の私たちに何か重要なことを伝えようとした。



 

「真珠の首飾り」とばれた美しい島
この日、視聴覚室で見たのはTVのドキュメント番組だった。白黒の映像だったけれど、何やら太平洋の島国が映し出されていた。

それはマーシャル諸島共和国に属するビキニ環礁の島だった。
マーシャル諸島は太平洋上に浮かぶ島国で「真珠の首飾り」と呼ばれていた。
美しいサンゴ礁に囲まれ、豊かな自然に恵まれた太平洋に浮かぶ平和で穏やかな島、質素だけれど自然と人々が共存して営まれる穏やかな暮らしが垣間見えた。

でも、そこへ星条旗の腕章をつけた背の高い軍人たちがたくさんやってきた。
何か実験をするらしい。
島の人たちは実験の間別の場所へ移動する。実験の結果を観察するために数種類の動物があえて島に残された。
島に残されたヒツジの目が私にはとても印象深かった。ヒツジはこれから起こることをすべて知っているかのように、不安で悲しい色の目をしていた。

翌日がその日だった。
それは1954年3月1日にアメリカ合衆国が行った水爆実験、キャッスル作戦(ブラボー実験)の映像が映し出されていく。
大きな水柱が上がったかと思うと、巨大なキノコ雲が浮き上がっていく。
自然豊かな珊瑚の海に、太平洋の潮風に猛毒が拡散される映像だった。この猛毒は半減期が長い。長期にわたり遺伝子や生態系を狂わせ、生命にあふれる豊かな海を沈黙の海へ変えていった。

 

この実験では広島型原子爆弾の約1,000倍の核出力(15Mt)の水素爆弾が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが形成されたという。
このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上の漁船が、死の灰を浴びて被曝、亡くなられた方もいた。

ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになった。
実験の結果を確認するために残された動物たちは目も当てられない姿になっていた。

アメリカ合衆国は1958年から残留放射能の調査を開始し、1968年にはビキニ返還を約束して放射能除去作業を開始したという。
8月には「居住は安全である」との結論が出され、島民の帰島が許可され、実験に先立ち離島した167人の内139人が帰島した。

しかし、放射能の影響で身体的異常が多数発生したため、住民は再び離島を余儀なくされ、別の島に移住している。
ビキニ島に人が居住できるようになる(原島民が島に戻れる)のは、早くても2052年頃と推定されている。
一連の実験で28種のサンゴが絶滅したといわれている。

http://fingfx.thomsonreuters.com/gfx/rngs/NORTHKOREA-MISSILES-LJA/010050ZS28L/index.htmlより

 

ために?
白黒映像のはずなのに、私には空も海も人もすべてが真っ赤な血の色に染まって見えた。
ビデオを見終えた後も、あのヒツジの悲しい目が私を見ている。
真っ赤に染まった目がこう話しかける

「あの日、とても大切なものが光とともに一瞬で消えた。本当に大変なのは真っ赤な毒に染まった地上に残されたあなた達のほうだよ」

赤い色が消えなくて数日間ずっと気持ちが悪かった。
「何のために?」こういうことは繰り返してはいけない、私たちはどれだけヒツジを犠牲にしていくのか、イエス・キリストが十字架に磔にされたゴルゴダから私たち何も変わっていない。
むしろ悪い方へ行っているかもしれない。




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星あかりが見えない豊かな世界の私たち

目を閉じると2011年の夏だった、私は里山にいた。
蝉の声がにぎやかだ、私は里山にある廃校の給食室でボランティアの仲間と一緒に大量のカレーを作っていた。

思い出した。
夏休みに福島の子供たちを招く「短期間のキャンプ疎開」のボランティアに参加していた。



数人の人たちと一緒に子供たちの食事の準備をする係になっていた。
食堂に子供たちのための椅子やテーブルを並べる、トレイに暖かい食事を載せて配膳をする。
お腹を空かせた子供達が食堂に集まってきた。みんな日焼けして健康的な肌の色になっている。



里山キャン疎開
このボランティアグループは地元の市民が集まって自然にできたものだった。
3.11の後、放射能の影響や食品のこと、がれきのこと、子供たちの健康のことなどを話し合っていた。
仲間の一人から「福島の人たちに何かできることはないか?」という意見が出たのをきっかけに被災した子供達を招待して、夏休みを里山で過ごしてもらう計画が立案された。

こうして福島の子供達と一緒に過ごす「夏休みのキャンプ疎開」の企画が出来たのだった。

この年もとても暑い夏だった、でもキャンプ疎開の廃校は山奥なので街中と比べて風もあり比較的過ごしやすかった。
とはいえ、廃校にはエアコンがなく、みんな扇風機やうちわで暑さをしのいでいた。
福島から総勢30人近い子供達が遠く離れた山奥までやってきてくれた。小さい子は小学校の低学年くらい、大きい子は中学生くらいだった。
みんな良く笑い、よく遊んで夏の暑さに負けず元気に過ごしていた。

 

子供達のキャンプの話を聞きつけて、地元の農家さん達や家庭用の農作物などを作っている人たちが毎日新鮮なお野菜や卵などご馳走をたくさん届けてくれた。
「作りすぎちゃったから、良かったら子供たちに食べさせてあげて」廃校の調理室は毎日届く新鮮な差し入れが届くいた。
まるで市場のように新鮮な食材が所狭しと並んでいた。
どの野菜も果物も作ってくれた人の思いを表しているようだった。丁寧に育てられたし農作物は優しい香りを放っている。
野菜や果物一つ一つ色やつやがあざやかで味も優しい。
大地の恵みと作った人の真心がそのまま実を結んで、美しい形を作っている。


子供達のために、木工教室が開かれたり、川遊びやハイキング、スイカ割り、花火大会など、地元の人たちやほかのボランティアグループと連携した催しがたくさん計画されていた。
子供たちの楽しそうな声を聞くと、とても嬉しかった。
おいしそうにご飯を食べる子、好き嫌いを言いながら食べる子、ちょっとホームシックになっている子、いろいろな子供たちの素直な表情が見られた。
夏の太陽の光に負けないくらい、どの子ものびのび過ごしている様子、表情がキラキラまぶしく輝いていた。

ずっと子供たちの姿を見ていたかったけれど、時間が限られていた。
夕食のかたずけが終わったので、一旦家に帰ることにした。あたりはもう真っ暗だった。

 

 

が見えなくなった豊かな世界
里山は街路灯が少なく暗いから星が明るく輝いて見える、月の明かりも普段より一層明るく見える。

駐車場まで小道を歩いていると、ゆらゆらと光を放ちながら、ほたるが飛んでいくのも見える。

車を運転していると、先ほどまで子供達と過ごした自然豊かな里山の廃校から、不自然なくらい明るい市街地へと景色が移り変わっていく。
夜なのに昼のように明るくて不気味だ。


街路灯はまだいいとして、夜なのにスーパーやコンビニなど商業施設や大きな工場などさまざまな明かりが煌々としている。
市街地はいたるところに電灯などによって明るく照らされている、反面、空の星が見えにくくなっている。
光害という言葉はこのことを言うのか、さっきまであんなに明るく輝いていた星も月も弱々しい。

 

 

負えないものを扱うことでまれる
夜の街を明るく照らし出すために電力がどれだけ必要なんだろう。
夜間電力は割安なのかもしれないけれど、夜に工場や商業施設をお休みにしたら、そうとう節電になるし環境にもいいと思うのだけど・・・。
私たちは何のために昼も夜もなくロボットみたいに働いている、こんなことをしているから体内時計がくるって本当にロボットになってしまう。
そして、思考や、感情、感覚や体そのものがおかしくなってしまうのでは?
そんな疑問が生まれてくる。

地球の肺といわれるアマゾンの熱帯雨林を焼き払い、海の水をろ過してくれる腎臓のようなサンゴ礁を痛めつけ、私たちは一体何を生み出しているんだろう?
世界は豊かになっているはずなのに、何のために働き続けるのか。

 

核だけでなく私たちは利便性や豊かさを求めリスクの高いものを扱っている。
不確かなテクノロジーを万能だと思いこんで過信いるのかもしれない。
危ないものを安全だと思いこむように自分たちにバイアスをかけている、そうしないと正気が保てないのだと思う。

私たちは自分たちの手に負えないもの、未来への負の遺産になるものを、犠牲を払ってまで利用し続ける。どうしてなのかよくわからない。







 

「相手を招待する」ワークで学んだこと

ょっと変わった強会

日曜日に名古屋のカルチャースクールで少し変わった講座を受けてきました。
体の使い方について学ぶための講座なのだけど、アプローチが予想外でビックリしました。
「体の使い方」というと、ボディーワーク系だから解剖学とか、ボディーメカニクス系の講座内容かな〜?と思っていました。

ちょっと緊張しながら教室へ向かうと、20畳くらいの教室に10人以上の方がみえられていました。年齢層もそれぞれで大学生から年配の方までバラエティーに富んでいました。

講師の先生ははつらつとした明るい女性で、とてもフレンドリーな笑顔で私のことを出迎えてくれました。

 

「ニックネームとかでいいから名札付けてくださいね~!そして、好きなところに座ってね」
先生は満面の笑みで説明をしてくれました。

この教室、雰囲気がめっちゃ明るいなぁ。と思いました。




「相手を招待する」ワークって何?

受講者が全員揃ったので、最初のワークについて説明が始まりました。
最初のワークは「相手を招待する」というものでした。

「相手を招待する」って何?どんなことをするのかな?と思いました。
すると、先生と受講生の女性がお手本を見せてくれました。

二人は1メートルくらい距離を置いて向かい合っていました。そして、言葉を使わずに「相手を招待」していました。
次のステップは「招待し続けながら、少しずつ距離を開いていくこと」でした。
二人はアイキャッチをしながら、少しづつ後退していきます。2メートル3メートル離れ、最終的に教室の隅から隅へと離れていきました。

次のステップでは、アイキャッチをしないで「別の方向を向いて相手を招待し続ける」というものでした。
先生も女性もお互い向きを変えて別々の方向へ歩いていきます。でも、相手を招待し続けていたようです。


二人の動きを見ている限りでは、何が「招待する」っていう事なのかな?って思いました。
すると講師の先生が「初対面の人とペアを組んで同じことをしてくださ〜い」と言われたのです。

(え?招待って何するのか説明ないんですけど・・、初めて受講するから意味わからないのですが(^▽^;))
と思いました。でも他の受講生の人たちがペアを組んでいかれたので、私も隣の席の女性とペアを組んでワークに挑戦しました。
(こういうのって、言葉で説明されるよりも、実際に体験したほうがわかる種類のものかな?とりあえずやってみよう!)と思いました。

 


「相手を招待する」ワークに

私がペアを組んだ女性Tさん(仮名)は、同年代の方でとてもやさしい雰囲気の方でした。
「○○です、よろしくお願いします」とお互いに挨拶をして、向かい合いました。
その後はお話禁止で、ノンバーバルコミュニケーションです。


1メートルほどの距離で向かい合うから、どうしても目が合います。
この時に気が付いたのですが、普段私は他の人と目を合わせる事が少ないです。人と目を合わせるのが恥ずかしいというか、あまりじっと見るのは失礼なんじゃないの?と思ったりして。
私自身人から見られるのが苦手なので、人のこともあまり注視しないようにしていました。目線って結構わかりますから、迷惑をかけたくないというか・・。
日本人に多いタイプだと思うのですが、相手の顔とか目をじっと見るのが苦手です。
緊張や不安、苦手意識が入り混じっていました。

でも、ワークの課題が「相手を招待する」なので、Tさんの目を見て「招待する」ことを意識しました。
この時、私が考えた「招待する」のイメージは”Tさんに対してこころを開く”というものでした。
子供のころみたいにまっすぐに相手を見て
「私はこういう者ですが、良かったら友達になりましょう」とか
「○○ちゃん、一緒にお話をしましょう」とお誘いをする感じをイメージしていました。



 

 

「招待する」ことは思ったよりくなかった

私なりに精一杯こころの壁を取り払って、オドオドしながらTさんの目を見つめ、招待しました。最初は目のやり場に困り、目線が泳いでいたと思います。「招待しなくっちゃ」と意識して力んでいましたし、実際に体に力が入っていました。
この時、Tさんも私のことを招待してくれていたのでした。
Tさんも最初は目線に困っていたようで、目線が良く動いているのが分かりました。
私のことを見ながら、どこか不安があったり、じっと相手を見ていいのか悪いのか・・・困惑しているようでした。
でも、お互い「招待」しているうちに、なんとなく目線が安定してきて、お互いを招待することに慣れていきます。
Tさんの目の奥から優しさとか、柔らかな温かさを感じて、とても安心して安らかな気持ちになっていきました。
すると、Tさんが昔から知っているお友達のような気分になってきました。

気が付くと、私もTさんも表情から迷いや緊張が消え、穏やかな笑顔になっていました。
体の余計な力が抜け、全身がリラックスしていくのもわかりました。
見ていることや見られていることに嫌な感じは全くなくて、楽しい気分、優しいあたたかな気分になっていきとても不思議な感覚でした。

最初の課題「招待する」ができたみたいなので、次のステップへ進みます。
少しずつ後ろに下がっていき、Tさんと距離を離していきました。
距離が開いても、「お友達を招待する」みたいな意識で、Tさんと向き合うことができました。
この段階になると、Tさんの全身から「招待」されているのを感じられるようになりました。距離が開いても、お互いに意識でつながっている。Tさんは私を受け入れてくれているし、私もちゃんとTさんを受け入れているよ。と、そんな安心感がありました。
二人とも部屋の隅にたどり着いたので、今度は目線を外して別々の方向へ歩いていきました。

 

相手の姿がえなくても招待しける

さっきまで優しい微笑みを送り続けてくれたTさん。彼女の優しい顔や姿、ふんわりした雰囲気が視界から消えてしまいます。
さっきまでは向かい合うのが怖くてとても緊張していたのに、不思議です、今度は彼女の姿やまなざしが見られなくなることがさみしいな。と思うのです。

子供のころ友達と一緒に遊んでいたときの同じような気持ちになったことがあります。
たくさん遊んだあと日が暮れてしまって、家に帰らないといけない時間になりました。あたりは暗くなって、ちょっと心細い、でも友達ともっと一緒に遊びたい。
それでも、親に怒られるから友達と「さようなら」をしてそれぞれの家に帰る。
どうせ次の日にも一緒に遊ぶのだけど、離れがたい。あの時のさみしさに似たものがあるなぁ。と思いました。

Tさんの笑顔が見られなくなったのは残念でしたが、「別の方向を向いても、相手を招待し続ける」というステップに挑戦してみました。
姿は見えないけれど、Tさんの存在がどこかにあると感じ、先ほどのように「Tさんを招待する」を続けてみました。

すると、なんとなくTさんが部屋のどのあたりにいるのか目で見えなくてもわかるような気がしました。あのふんわりした人が部屋のどこかにいるのが感じられるのです。
それだけでなく、こころの中?意識の中に、Tさんのやさしい笑顔が広がって、とてもやさしい気持ちになれます。
お互いに姿が見えなくても、Tさんはすぐ近くにいて私に微笑みかけてくれている。そんな気持ちになりました。

だから、私も姿が見えないTさんにむけて「招待する」を続けていました。姿が見える事や見えないこと、お互い近くにいないこと、視覚や距離感はあまり意味がないのだな。と思いました。

 


自己防御はエネルギーの費、時には相手をつけるかも?

今回のワークで思ったことは、日ごろ私が周りの社会に対してとても閉鎖的になっているという事でした。
「相手を招待する」というテーマで、Tさんと向かい合ったとき、目線のやり場に困ったことで、日ごろほとんど他の人と目を合わせずに過ごしていることがわかりました。

目を合わせない理由も、いろいろありますが、主には社会や周囲の人のリアクションを見るのが怖いのがあります。
周りの人達の目が怖いんですね、「変だと思われたらどうしよう」とか「無視されたら」とか「気分を害したら」とか余計なことばかり考えているのでしょう。
周りの目線が怖いから、それを見ないように目線を下に向け、いつもうつむいて過ごしています。
下を向くと、気持ちも前向きにならないし、猫背気味の巻き肩になってしまい、体に余計な力が入ってしまいます。
自分を守るためにやっている癖かもしれないけれど、悪い影響しか生みません。

おまけに、下ばかり向いていると、私のことを招待してくれている親切な人がいるのも見落としてしまいます。
これは私のエネルギーの無駄遣いだけでなく、相手のエネルギーも無駄にさせてしまうので、とても良くないな。と思います。

他の人からの招待を見落とすことは、他者からの思いを無下にしてしまうことなので、とても悲しいことだと思います。
こういう見落とす傾向は、相手が大人の場合もそうだし、子供や動物たち、自然に対しても同じことをしてしまうのでは?と危惧します。
自己防衛のために、心に壁を作ること、目線を下げて下ばかり見ていると、大切な人だけでなく、子供達、動物、自然や宇宙のことば、メッセージも見落とすことにつながるのだと思いました。(ちょっと飛躍しすぎかも?ですが)

自分がやってみて思ったのですが、誰かを「招待する」って勇気が必要です。

勇気って前向きなエネルギーのことだと思うのです。
他の人が勇気を出して「招待」してくれたのに、それを取りこぼすのは、相手の人を傷つけてしまうかもしれません。
こころの広い人なら気にされないかもしれません、でも、出来る限り周囲の人たちのまごころや親切は相手のエネルギーなのでちゃんと受け取りたいと思います。
相手の人の気持ちをちゃんと受け取って理解して、エネルギーを送ったり、贈られたり循環しながらお互いに「招待」を続けて行くのが理想的だと思います。

エネルギーを無駄に消耗する自己防衛は少しずつ卒業して、周りの環境や人たちに対して「招待する」を続けていきたいなぁ。と思いました。